2015年5月4日月曜日

恋の暴力

恋って暴力だ。
恋なんて暴挙だ。
恋は暴君だ。
恋だなんて暴風だ。
恋とかもう奪略だ。

恋って暴力だ。



とんでもない。とんでもないよグザヴィエ・ドラン。
今になって『胸騒ぎの恋人』観たけれども、とんでもない。
一分の隙もなく完璧だ、打ちのめされる、完膚なきまでに、打ちのめされる。

色彩、カット、視点、角度、役者、光、色彩、目線。

なにもかもが完璧すぎて完全にやられた。

なんで?意味わかんない。
そもそも恋が暴力だということが、こんなにもこの世界で普遍であることが意味わかんない。
そのことをこんなにも痛々しいやり方で抉り出せる25歳(当時だと20歳くらいだよね)が
意味わかんない。

もう、とんでもないよ。
もう、嫌だよこんな暴力でなぎ倒されるのは。
そんな恋はしたくありません。
でもそうでなければ恋でないのかも。
そうだとするならばもうわたしは、恋はしていないのかも。できないのかも。

あのグザヴィエ演じるフランシスの美しく零れ落ちる涙のようなものが
ひとしずくも出ない30間近のわたしの「好き」など生温い、妥協の産物でしかなくて、
もう二度とあんな飛び降りるような「好き」は。

でもね。もう十分だよ。というのも本音なのよ。
20代前半で十分味わったよああいう、肌を切るような鋭い涙は。
あんなこと今やってたら持たないよ。

ああ恋なんて暴力だこわい。
どうしよう無理突入。
かといって妥協点見出しに行って振られてるし。
なんだそれ。
意味わかんない。

もう電話しようかな。彼に。
意味不明。

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